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2018年4月14日 (土)

七尾城跡に行って来ました。

2018年4月10日(火)にお城巡りで待望の七尾城跡に行って来ました、室町幕府の守護能登畠山氏の居城の山上城郭です、天正5年9月15日に上杉謙信軍2万の前に落城しました。
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七尾城は能登半島の付け根七尾湾を眼下にそびえる石動山300mの端に位置します、山裾の尾根を利用した堅固な城ですね・・・小谷城・観音寺城を思い出しました。
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車で本丸下の駐車場まで上がれます、昔は無いルートで?長屋敷への一部かな?、いきなり本丸方面へ。
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左側が本丸の切岸で少し行くと調度丸の郭に出ます。
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調度丸脇から見た本丸の切岸とその上にある石垣です。
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調度丸です・・・・・左側が桜馬場側です石垣(石塁)が見られます。
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奇麗な野面積の石垣が三段に積み上げてありますね、防御用?崩れ防止用?、高い石垣構築技術がまだ無かったのですかネ、しかし良く崩れずに残りましたね・・・低い野面積なればこそ400年も残るのでしょうね。
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調度丸の端に虎口の石垣があります、寺屋敷への出入り口ですネ。

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桜馬場・遊佐屋敷へ階段を上り上から石垣を見ろしました。
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遊佐屋敷脇から本丸方面を見ました、本丸への北の虎口の石垣です。
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本丸への上り口です石垣に囲まれた細い登りです。
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登りつめるといきなり本丸です。
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北側は眺望が七尾湾が眼下に見えます、南側は山々が繋がり石動山も見えます、石動山大宮坊に上杉謙信は本営を設けここ能登畠山氏と戦をしたのです、当時天正5年9月15日に落城しますが、漢詩で有名な”9月13日夜陣営”はこの時の情景を詠じたものです、二万の軍勢で包囲し城側は籠城していたのです。
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七尾城址の碑が山頂にありますが、畠山氏の末裔の(荏原製作所創業者)建立とか、当時は畠山氏は内紛状態で当主不在状態で有力家臣が三グループで対立、遊佐氏・・・上杉系、長氏・・・織田系、温井氏・・・金沢御堂系織田の勢力が大きくなり金沢御堂(本願寺)が上杉支持になり、最後は遊佐氏が上杉軍を引き入れたそうです。
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本丸から北側の虎口を見る・・・眼下に登る敵が見えますね。
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本丸のもう一つの虎口(西側)です、土塁石垣が崩れていますが。
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虎口は枡形状の広場で両サイドはガケ状です。
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虎口出口は横矢掛かり状態の急さかです、遊佐屋敷横桜馬場へなります、本丸の抑えは北・西とも遊佐氏が抑えていたわけです。
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桜馬場を行くと左側が西の丸・正面が温井屋敷・二の丸となります。
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温井屋敷から見た二の丸の石垣。
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温井屋敷西側の虎口にある九尺石です、降りる先は?、二の丸を迂回して三の丸へ出るのでは?、私は今回二の丸までで引き返したのでこの山城全体が把握できずですが、やはり各屋敷を山上に構えたのは観音寺城に似ているのでしょうね。
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調度丸からの帰りです、右側が本丸土塁(切岸)です、東側も掘割(堀切?)で削られています、やや時間が少なく未消化でしたが、来て見て実感しました、明日は昨年行った、福井・丸岡・越前大野城跡です。
上杉軍の前に開城し、支援依頼を受けた織田軍柴田・前田4万はまにあわず敗退するが翌年上杉謙信は春日山城にて死亡、結局前田利家が治めその後廃城となりましたね。

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